「ぐ…ッ!」
 あまりの圧迫に、胃やら何やらが口から出てきてしまいそうになるのを必死に押さえながら、俺は突然の慶次の暴挙に目を白黒とさせる。
 相当怒らせてしまったのかとハラハラしながら、頭一つ分上の慶次の顔を見て、俺は拍子抜けした。
 慶次は、笑っていたのだ。
「そんな事だったのか。俺はてっきり嫌われちまったのかと思って…!」
 良かった良かったと繰り返す慶次に、俺は呆気に取られてその顔を凝視するしかできなかった。グリグリと力強く頬ずりされて首が変な方向に折れそうになるのを何とか気合で留める。
「つまりは他の簪と自分の簪が一緒に並んでんのが嫌だったんだろ。だったらもう他の簪は付けない。それならはもう悲しくないよな?」
「それは駄目だ!」
 奥州王や軍神、果ては京の花町の太夫から受け取った簪をささないなんて、そんな無礼は許されないだろう。何より人情を大切にしている慶次にそんな事をさせるのは憚られる。
 折角の提案をすぐに否定されてしまった慶次はシュンとしょ気てしまっている。先程までの怒りや悲しみはどこか遠くへ吹っ飛んでしまったようだ。
「でもさ、俺はに悲しい思いなんかさせたくないんだよ。」
 真剣な表情で告げられた言葉に俺は一瞬硬直した。男前のそういう表情を間近で見ると、思考回路は一瞬停止してしまう。
「どうしたらが悲しくならないようになるんだ?」
 問われて俺は考えてしまう。そりゃ、他の簪をささないで、と言ってしまえば万事解決だが、悔しい事にどの簪も慶次に似合っている。それをさすなというのはとても忍びなかった。
 かといってそれらの中に俺の簪を並べられるのは悲しいし、俺の簪だけさされなくても悲しい。
 思考が堂々巡りを始める中、ふと俺は口を開いていた。
「慶次はさ、今持ってる中で何の簪が一番好きなんだ?」
 問いかけてから、何という事を聞いたのだと内心慌てる。そりゃ、どの簪も美しいしそれぞれ違う魅力がある。だからどれが一番など決められる訳が無いだろう。
 それに、このような事があってから問いかけるなんて、あえて自分の簪を選べと遠まわしに強請っているようなものだ。
 何となくとはいえ簡単にそんな事を口にしてしまった事を、俺は酷く恥じた。
「ご、ごめん、今のやっぱり、」
「独眼竜のは質素な中でも味があるし、謙信公の奴は彫が細かくて綺麗だし、太夫のも華やかでありながら品がいい。のくれた奴は飽きの来ない作りで使い勝手が良いし、俺はどれも一番好きだな。」
 やっぱりなかった事にというより先に、慶次はつらつらと一息で説明をした。どの簪の個性をも理解して、それで全部を好きだというそのはっきりとした言葉に、俺は知らず笑みを浮かべていた。
 どの簪もそれぞれに個性があって好きだと、そう言ってくれる中に俺の簪が入っていただけで、俺はとても救われた様な、そんな気分になれたから。
「だからできれば全部付けたいんだけどな。」
 ヘラりとした笑いを浮かべる慶次に俺は頷いた。
「いいぜ。やっぱり慶次はそうじゃないと。」
「でも悲しくならないか?」
 心配そうに問いかけてくる慶次に俺は笑顔で首を横に振った。
 そりゃ、俺の簪は他の三つに比べれば物凄い安物で、足元にも及ばないようなものだけど。でもそれを所有してくれている慶次が好きだと、そう言ってくれるなら。
 そう言ってくれるなら、それだけで十分に嬉しいと。そう改めて気付いたから。
「大丈夫だよ。慶次はどの簪も一番好きなんだろ?一番好きな奴を付けなきゃ勿体無いって。」
 俺の言葉に慶次は力強く頷き、そして突然脱力した。俺を抱きしめたまま力が抜けたので、殆どもたれかかられる状態になり俺はかなりの体重で圧迫される。
 そのまま耐え切れずに後ろに尻餅をつけば、ジンジンと痛みが背骨を駆け上がって頭へと抜けていく。流石に大人二人分…しかも慶次は普通の人よりずば抜けてでかい体躯なのだ、衝撃の許容量はとうに超えていただろう。
「でも、簪がまだ見つかってないんだよな。」
 死にそうな声で呟く慶次。それを聞いて俺はまだ簪を返していなかったのを思い出した。
 流石にこの状況じゃ、そこで見つけたなどと嘘をいう事も出来ない。ここは正直に謝らないと、と思っていると、慶次がん?と声をあげた。
。何持ってるんだ?」
 もたれかかるようになった為、俺の懐にある異物に気付いたのだろう。慶次が怪訝そうな顔をして俺の顔を見ている。それに気付いた時俺は一気に冷や汗が吹き出るのを感じた。
「あ、えっと。」
 説明するよりも早く、慶次は俺の懐からそれを掴み出し、そして驚いた表情をしたまま動きを止めた。
、いつからこれを…」
「あー、その、話せば長くなる。うん。」
 言い訳する事も出来なそうだ。驚きの表情から一転、慶次は意地の悪い笑みを浮かべている。問答無用で洗いざらい吐かされるのは目に見えていた。
「なるほどな。話しはゆっくり宿で聞いてやるよ。」
 簪を慣れた手つきで髪にさすと、がっしりと俺の両腕を掴んで立たせた。勿論嫌だとは言えない。
「俺、明日も仕事があるんだけど。」
「大丈夫。夜明けまでには帰してやるからな。」
 強く肩を叩かれ、俺は小さく溜息をつく。そしてゆっくりと町に向かって歩き出した。
 後ろで慶次がなにやら呟いていたが、それはあまり聞こえなかったので振り返る。すると慶次はばつが悪そうに笑ってから、俺が何かを問いかける前に飛びついてきた。
 そのまんま肩を組むようにして町への道を歩かされ、結局、その時慶次が何て言っていたか、俺は聞く事ができなかった。

 好きな子に嫉妬してもらえたなんて、男冥利につきるねぇ。