「多分、そうなるんだろう。現に、徳が上がったり下がったりするといける世界が変わると言われているしな。」
だからきっと帰れるだろうと、小十郎は続けようとしたのだろうか。口を開いて何かを言おうとしていたが、止めてしまった。一体どうしたのかと思いながら泥に塗れた大根を洗っていると、小十郎が視線だけではなく顔ごとこちらを向いた。
まじまじと俺の顔を見つめるその視線。理由は良くわからないけれど、じっと見つめられてると気恥ずかしい。俺は大根を洗う手を止めて小十郎の視線に自分の視線をぶつけた。
「何だよ。」
「…お前、帰りたいと思ってねぇのか。」
信じられないというような小十郎の声。それは問いかけというよりは断定に近かったけれど、実際そうだから俺は否定する事は無かった。むしろどうしてそれを今更聞くのだろうという疑問の方が先立ってしまうが、普通の人はそう思うのだろう。
自分が今まで住んでいた世界から違う世界に来てしまったら、小十郎としては耐えられない事に違いない。政宗の従者として右目として、絶対にその後ろを空けてはいけないと思っているだろうから、必死になって元の世界に帰ろうとするんだろう。
でも生憎、俺はそんな風に思えるような対象も無い訳で。
「帰りたいって思わないな。向こうもそれなりに楽しかったけど、それだけだしさ。」
そう、所詮そんなものだ。まして俺は一度あの世界に裏切られている。常識全てを覆され、自分の信じていたもの全てが足元から一気に消えていくあの恐怖は、今でも忘れられないほどだ。
だから今回だってきっと同じだ。向こうの世界は俺を手放すという形で裏切った。ただ、それだけだ。
「お前の執着の度合いは、楽しいか否かだけか?」
スゥと小十郎の僅かに垂れ目な双眸が細められた。その目に映る色は嫌な色、軽蔑とかそんな感じのものが黒いとぐろを巻いて存在している。
折角仲良くなったっぽいのに、俺と小十郎の新密度は下がってしまったらしい。俺の長所は、人とすぐに仲良くなれる事だと思ってたんだけど。
まぁ政宗命な忠臣の小十郎からすれば、俺の価値観は理解できないものなんだろう。楽しいか否かだけで全てを決めるなんて曲がっているとか、そんな風に思われているのかもしれない。でも俺は今までそうやって生きてきたし、それ以外の方法なんて知らない。
俺と政宗との間に現代の甘い考えと戦乱の厳しい考えの差があったのと同様、小十郎と俺の間にもまた溝があるらしい。ただここで一番の問題になるのは、それが現代とか戦乱とかの時代の問題じゃなくて個人の価値観の問題だって事だ。
「家族も友人も…お前を縛るモンは何一つ無かったって言うのか?」
しがらみとか縁とか、小十郎の言っている縛るものはそういう物なんだろう。でも、それに縛られて果たして幸せなのか否かは当人次第だと俺は考えている。
小十郎はきっと幸せなんだろう、こんな風に言えるのだから。それに対して俺は幸せでも、かといって不幸せでもない。小十郎の言う縛るモンもあったかもしれないけれど、それは俺からすれば容易く切れる弱い糸に過ぎなかった。決して、小十郎と政宗とを繋ぐ様な強い鎖ではなかったのだ。
「無いよ。」
きっぱりと言い切ると、小十郎が柄にも無くうろたえた。まさかこうもきっぱり否定されるとは思っていなかったのだろう。こちらを見つめていた視線がフイと反らされる。その横顔は理解に苦しんでいるように見えた。
理解できなくて良いのにと、俺はそう考えながら大根を洗う。もし理解できるようになったらその時は、小十郎も俺と同じ価値観になってしまった時なのだろうから。
それからは無言だった。重い空気って程では無いけれど、何の会話も無い。小十郎は俺に対して呆れてしまったんじゃないだろうかと、無言の間に俺はそんな事を考えていた。平和な世界で生まれ育って、飢えも命の危険も殆ど無い場所で生きていたっていうのに、それを幸せだと思えない俺を贅沢な奴だと思っているかもしれない。
甘い俺の価値観で政宗は笑ってくれた。下らないと切り捨てる事もできたのに受け入れてくれた。けれど、それとこれとはケースが別なのだ。
かじかむ手の先が、感覚を失い始める。
「…終わらないのか?」
残り後二本という所で、今まで口を閉ざしていた小十郎が突然に声をかけてきた。白菜を全部洗い終わったらしく、綺麗になった白菜をザルへと入れている。
「いや、後二本で終わる。」
一度口を開けば、さっきまでの妙な空気はフッと消えていった。
極限まで冷たくなった指の先は、これ以上の冷たさの侵略を防ぐようにジンジンとし始める。一生懸命に血液を送って温めようとする、無意識のなせる業に俺は少し感動する。
「わかった。貸せ。」
小十郎は俺の隣にしゃがみこむと、まだ洗われていない大根に手を伸ばした。
「いいって、すぐに終わるし。」
ましてさっき、自分が終わったら手伝うと言った手前、逆に手伝ってもらうのも気が引けてしまう。しかし小十郎はそんなの知った事か、と言った具合で有無を言わさず大根を洗い出した。

