このまま顔に齧りつかれても違和感が無いくらい顔が近付くと、僅か白粉の香りが鼻をつく。それと同時に俺様は目の前の顔を良く見つめた。キメの整った肌に、白粉がうっすらと塗られている。艶のある唇にはそれとは気付かない薄い色の紅が差されていた。
 化粧がもし鬼を抑える姫を表しているならば、今目の前にいるこの鬼は、まだまだその総ての内の少ししか表に出ていない。これだけの威圧感を持ちながら、それは一部でしかないのだ。
「四国がこんなに力を持っているなんて予想外だよ。」
 天下取りには全く関与する余地も無い小国のつもりが、とんだ勘違いだ。
 この男、まだまだ実力を中に秘めている。そして虎視眈々とその時期を狙っているのだ。
「褒めてくれんのかい?そいつぁ嬉しいや!」
 無邪気に笑みを浮かべながらも、威圧感は消えない。それどころか威圧感はゆっくりと大きくなっていく。そしてゆっくりと手を伸ばして俺様の顎を捕らえると、グィと上向かせて視線を合わせてきた。
「暗殺しねぇのか?ここで俺をやらなきゃ、いつかあんたの国も奪うぜ。」
 こんなに威嚇しながらこんな言葉を吐くなんて、長曾我部は相当の苛めっ子気質らしい。ここであんたを討ち取ろうとすればすぐにでも俺様を殺すくせに、それなのに選択肢があるように見せかける。
 長曾我部は選択させたいのだ。俺様には、自分が殺せないと、そう意識へと深く刷り込ませる為に。
 ここで殺し損ねたら二度と殺す事はできない。そうわかっていても、ここで動けば殺される。その究極の二択に、俺様は案外あっさりと答えを導き出した。
「ありがとね、長曾我部の旦那。」
 腰に携えている大型の手裏剣に手をやれば、鬼の手が俺様の首を片手で掴みあげた。体がブランと宙に浮き、ミシリと首の骨が嫌な音を立てる。
「俺様はあんたを殺すよ。残念ながらね、俺様の次はまだまだ一杯いるんだ。」
 忍びなんてそんなもんだ。例えここで猿飛佐助が消えても、次の佐助が現れて真田に従う。俺達は人間なんかじゃなくて、ただの草。踏まれて、摘まれて、燃やされて。それでもまた生えてくる。
 俺様は消えるのに、佐助の名前は残り続ける。それならば、と思う。
 思うのに。
 そう、思っているはずなのに。
「残念に思っているのはてめぇの方だろう?」
 鬼の口から出たとは思えない、愛しむ様なそんな優しい声音に、俺は苦しさで落ちつつある目蓋を開いた。威圧感は変わらないのに、長曾我部はまるで大切な人形を愛でる姫のように優しい瞳でこちらを見ている。
「ここで俺を殺して、相打ちで死ぬ。それに納得してねぇのはお前だろ。」
「納得できるかどうかなんて、関係ないっしょ。」
 忍びなんて、そんなもんだ。
「…気に入った。」
 突然にそう言うと、長曾我部は俺の首から手を放して地面へと横たえさせる。
 手が放されて初めて、自分が酸欠になっているのに気付いた。目の前がチカチカと七色に光り、寝転がっているはずの体がグラリと動くようなそんな感覚が何度も襲ってくる。
「俺の脅しに負けなかった奴はあんたが初めてだ。」
 俺様という新しい玩具を喜ぶその顔は、果たして姫か、それとも鬼か。
 どちらの要素も持つこの男は横たわる俺様の隣にどっかりと座り込んだ。
「お前が命を賭す程の主に一度会ってみてぇな。もしお前に似合わねぇクズなら、俺が殺してやるよ。」
 よっしゃ、それがいい!と、まるで遊山に行く計画を立てる子供のようにはしゃぐ長曾我部。漸くその性格を掴み掛けてきた気がする。
「もしいい奴だったら、そうだな…俺の領地全部をそいつにくれてやる。」
「…何、言ってんのさ。」
 今の時点ですら長曾我部軍の領地は広い。まして領地を預けるという事は帰順を示すという事。長曾我部軍の強さの秘訣である重機すら預けるという事であり、武田に忠誠を誓うという事でもある。
 血迷い言。そう片付けられたらどんなに楽だろう。しかし長曾我部の顔は至極真面目だ。
「おかしいんじゃない?普通そんな事しないって。」
「普通ならな。でも良いんだ、俺がそう決めた。」
 それが普通じゃ無いんだと、そう言いたいのを堪える。きっと長曾我部の価値観は、この戦国を生きる奴らとは全く違うのだろうから。
「その代わり、俺はお前を貰うぜ。」
 その言葉を理解するのにたっぷり五拍。俺様はその言葉を何度も頭の中で繰り返し、漸くその意味を理解した。
「は!?どうしてそうなるの!」
 突拍子が無いのもここまで来ると才能だ。
 内心そう褒め称えるように貶しながら、自分でもわかるくらい怪訝な表情をして相手を見つめる。
「俺がお前の軍に領地を与えるのは、俺がそいつを認めてからだ。言っておくが、俺はこの国、日ノ本を統べる能力のある奴じゃ無い限り、お前の主を認めねぇ。だとすれば、俺が領地を与えた瞬間、そいつは天下を統一できる。」
 つまり日ノ本を制する男じゃ無い限り、自分に勝てる奴はいない、という事か。相当な自信だ。
 とはいえ、その天下統一と俺様がこいつに貰われるのと、一体どういう関係があるって言うんだろう。
「この国を統一すりゃ、忍びのあんたはもういらない存在だ。」
 何て言うか、人権も何も無い。と思ってから俺は小さく苦笑した。人権なんて元々存在しない。草は草。いらなくなったら刈り取られる。それだけなのに。
「俺様の存在意義を消しちゃう訳?」