八朔

 八月の朔の日。小十郎の朝はいつもより少しだけ早い。太陽が漸く出始めたという頃、小十郎は自分の畑の前にいた。
 夏も過ぎて秋口になったとはいえ、太陽が少し出てきただけで気温が上がってくる。これは今日も暑くなるなと、小十郎は出てきたばかりの太陽に目をやり、その眩しさに目を細めた。
 野良仕事用の服を身に纏い、首から手ぬぐいを引っさげているその格好は、戦場で鬼のような働きをする竜の右目の姿を微塵も感じさせない。それどころか、いつもキリリとした目つきもどこか柔和になり、自分の畑を満足そうに一望している。わざわざ自分の為に主が用意してくれた場所となれば尚の事だ。
「今年も良い出来じゃねぇか…」
 悪役張りにクツクツと喉で笑うがその顔はかなり綻んでいる。
 小十郎自身、それに気付いているのかニヤケている頬を押さえて笑いを堪えようとしているが、それよりも笑みの方が上回っているらしく、笑顔が壊れる事は無い。
 片手に大きなザルを持ち、小十郎は畑へと一歩足を踏み出した。
 収穫期、である。


 くみ上げたばかりの井戸水は、残暑に熱せられた地面よりも更に深くにある為か、鳥肌が立つほどに冷たい。それらで収穫したばかりの野菜を洗いながら、小十郎は炎天下で熱せられた体の熱が、水に触れる手元から徐々に冷めていくのがわかった。
 畑から戻り、城の中にある井戸で小十郎は取り立ての野菜を洗っていた。
 どの野菜も小十郎が丹精を込めて作ったもので、みずみずしさ、色、艶、形、すべてにおいて高品質である。勿論、農薬などは使わない百パーセント有機農法を用い、青虫などの害虫は一匹ずつ専用の箸でつまんで除去するという念の入れようである。
 それ故に畑の規模は小十郎一人がまかなえる程度の小さいものになってしまっているが、小十郎自身はとても満足している。
 この茄子の形は完璧だ、などとその曲線美に酔い痴れていると、しゃがんでタライに向き合っている自分を覆うように影がかかる。一体誰かと振り返るような、そんな無粋な事はしなかった。
「暑い中ご苦労な事だな。」
 少し呆れたような主の声が後ろのやや上辺りから降ってくる。きっと屈んでいる自分を呆れながら見下ろしているのだろう。
「八月の朔なれば、気合も入りましょう。」
 自分が振り返りながら答えれば、予想通り呆れた顔をした主がなるほどと小さく呟いていた。そして収穫をしている間に大分上へ上がってしまった太陽へと視線をやってから、向き直る。
 呆れの中に、若干の慈しみが入り込んだ。
「気合が入る分にゃ構わねぇが、ぶっ倒れるなんてヘマすんじゃねぇぞ。」
「お優しいお言葉、痛み入ります。」
 例えここで一度休めと言われても何だかんだと理由を付けて撥ね付けることを理解しているからこそ、主はそれだけを言って終わりにしたのだろう。一度決めたら、何を言っても聞かないというのは十二分に理解しているはずだ。
 では、と言って再び野菜を洗うのに専念する。話も終わった事だし、主はもう屋内へと戻られると思った
 しかし自分の後ろにある影は一向に動く気配が無く、自分に覆いかぶさったままである。
「…いかがなさりましたか?」
 愛しい愛しい野菜達を洗う手すら止めて小十郎が振り返って問い掛ければ、政宗はハッとした様子でなんでもないと言って去って行ってしまった。
 何か言いたい事があるのだろうか。そう思ったのは長年付き合った小十郎だからこそわかる勘、というものである。しかし去っていってしまう主を見る限り、それほど至急の用ではないようだ。必要になれば言ってくれるだろうと結論付けると、小十郎は再び野菜へと視線をやってその強面を緩めるのだった。